焼き菓子の甘い香り

焼き菓子の甘い香り

日の沈む時刻がすっかり早くなったある日、何も持たずレンガの道を歩いていた。夏の青々しい風景は、赤や茶色、黄色などの暖色系の色に取って代わられていた。

背中から前方へ強い風が吹き抜ける。
木の枝にかろうじてぶら下がっていた枯葉が数枚、空中に舞い上がりふわりふわりと落ちていく。地面には、たくさんの落ち葉が所狭しと重なっていた。その上を歩く度、カサッ、クシャッと落ち葉の砕ける音がした。

心地よい音にしばし耳を傾けていると、焼き菓子を焼くような甘い香りが漂ってきた。
香りの出所を確認するため、辺りを見渡すと、おとぎ話に出てきそうな古風で可愛らしい建物を見つけた。
庭には、鮮やかさを失ったエメラルドグリーンのベンチと、樹齢100年はあろうかという大木にブランコが吊るされていた。
思いがけず、香りのする方へと足を進めドアの前に立ち、メッキの剥がれかけたドアノブをゆっくりと回した。

グヮッチャ…。
重々しく妙に印象的な音が店内に響き渡る。

店内は、どういうわけか真っ暗だった。
ドアから外の光が差し込み、床だけが浮かび上がって見える。

時間が経つと、店内の様子がうっすら見えてきた。
真っ先にショーケースが目に留まったが、中は空っぽだった。辺りを見渡してみるが、客はおろか店員の姿も見えない。さっきまで漂っていた甘い香りまでもが消えていた。

ジリリリリリッ、ジリリリリリッ…。
不意に、電話が鳴り出し店内に響く。店員は姿を見せなかった。
電話は鳴り続き、鳴り止む気配もない。ぎこちない動きで、電話に近づき受話器を手に取る。
耳に当てた受話器の先からは、何も聞こえてこなかった。

フッと息を吐き、耳に向けた集中が緩む。すると、さっきまで身を潜めていた焼き菓子を焼くような甘い香りを感じた。香りを辿るように、頭を動かし鼻を利かす。

香りは、受話器の受話口から漂っていた。
これまで感じたことのない、香ばしく甘く豊かな香りだった。顔の表情がにわかに緩む。
ふと、誰が電話をかけているのか、なぜ受話器から甘い香りが漂ってくるのか、不思議に感じた。
そんなことを考えている最中だった。

グワッチャ…。
背後で、ドアノブの回る音が聞こえた。

穴掘りタイム

穴掘りタイム

スコップを握りしめ、地面を掘っている。穴は、ちょうど頭が出るくらいの深さになっていた。
手のひらは、少し赤くなりジンジンする。

顔を穴の外へと向ける。
地平線が見えるほど周りには何もない、サバンナのような光景が広がっていた。空は晴れ渡っていたが暑くはない、春の陽気を思わせる気候だった。
酸味の混じった乾いた土の匂いが、辺りに漂っている。穴の横には、掘った分の土が積み重なり山になっていた。名前も知らない虫が、山の頂上を目指して静かに進んでいる。

再び顔を穴の方へと向ける。
ズァッ、ズァッ、ズァッ…。時計が時を刻むように、一定のリズムで地面を掘っていく。次第にこのリズムが身体に浸透し、浸透するほど時間の感覚は色褪せていった。

しばらく掘っていると、スコップから伝わる衝撃が、急に重くなる。
土の色が赤褐色からこげ茶色へと変わっていた。
穴は、頭がすっかり隠れるくらいまで深くなっている。見上げると窮屈に収まった青空だけがポッカリ見える。遠くで獣の低く通った声が聞こえ、意識が一瞬穴の外へと流れた。

意識を穴の中へ戻し掘り始めると、カーンという音と共に地面から弾き返された。
いかにも重そうな石が、行き先を阻むように横たわっている。スコップで石の頭を二度軽く突き、唇を歪める。肩を上げ、重力に任せて落とし、息を大きく吐いた。

わずかな沈黙の後、再びスコップを地面に向ける。石の表面をなぞるように、斜め下へと掘り進む。
石は、印象に感じるほど大きなものではなかった。

ふと、空に目を向ける。
さっきまで、青かった空がオレンジ色に変わっていた。

湖底の手紙

湖底の手紙

日の光が全く届かない深い深い湖の底。一つのランプを頼りに、机に向かい手紙を書いている。

紙をなぞる鉛筆のサッサ、カツカツという音が鮮明に響く。時折、魚か何かの気配を感じるが泳ぐ音は全く聞こえない。他に聞こえる音といえば、低いエコーがかった水を伝わる音だけ。

音の正体を確かめたくても、ランプの光より外にあるらしく、確認することはできなかった。
わずかに肌寒い感覚が、水の流れが変わることで、暖かかったり冷たかったり変化した。
手紙を書く手が止まり、また動き出す。この繰り返しが、何度も何度も続く。

暗がりをしばらくじっと見つめ、今度はしばらく目を閉じる。同じ暗闇でも、目に映る色はどこか違って見えた。一つ二つ大きく深呼吸をし、また手紙を書き始める。

手の動きが徐々に加速し、加速した手は止まることを忘れ、どんどん書き続ける。それと同時に、紙をなぞる音もどんどん力強くなっていく。まもなくして、ピタッと手が止まり手紙は書き上がった。
一文字一文字、字の形を味わうように文と宛名を読み返す。手に持った手紙は、ほんのり温かく感じる。

「手紙を出すのは、明日にしようか。」